*** 2005年9月11日(日)〜2日目、私は今、風になっています ***

 ビジネスプランのお陰で朝食は優雅なホテル食。

 わたしはこの日から二日がかりで「しまなみ海道をチャリで北上しよう計画」を立てていた。しまなみ海道というのは、瀬戸内海に浮かぶ島々が自転車や歩行者も通行可能な大橋でつながっており本州の尾道と四国の今治を結んでいるルートのことだ。推奨サイクリングロードを自転車で完走すれば約80キロの道のりになる。

 歩いてJR松山駅まで行くが、ウカツにも時刻表をチェックせずに改札をくぐってしまった。乗りたい各駅停車は一時間後の出発。仕方がないのでホームで持参した『坊っちゃん』を読む。
 坊っちゃんが温泉に行くところを読んでみると、彼は毎日上等(三階で休憩ができ浴衣を貸してくれて流しとお茶付きで8銭)に入り、学校で生徒から「月給40円で毎日上等に入るのは贅沢だ」と黒板に落書きされている。
 明治半ばの物価というのがいまひとつピンとこないので、計算してみた。
 坊っちゃんは物理学校に三年通った。その間の学費は、一年につき生活費を含めて200円。その後中学(今の高校)の数学の新任教師として松山にやってきた。その初任給が40円。地方への赴任だし泊まり込みの日直勤務もあるから、これはかなり高いだろう。その後東京に帰った坊っちゃんが都電技手になったときの給料は25円で、清と一緒に住んだ家賃が6円。
 今の感覚でいえば1円は約1万円と考えれば良いのだろうか。
 で、松山でのお風呂代が一日8銭。100銭で1円だから、毎日入ると8×30として2円40銭。アバウトに現代の2万4000円と換算してみると、一日800円の計算になる。今、道後温泉本館の大湯のみ使用だと300円(平成17年9月現在)だから、倹約家のうらなり君のお風呂代はおそらく300×30で9000円。ちなみに東京の銭湯は普通400円で、毎日入ると400×30で1万2000円。
 一般人の二倍かそれ以上のお風呂代だからまあ贅沢といえば贅沢だが、月給40万で独り者の下宿暮らしである坊っちゃんにしてみれば、金銭的にそれほど痛い出費でもないはずだ。  ちなみにこの要領で換算してみると、坊っちゃんの先の下宿のいか銀のおやじが坊っちゃんに売りつけようとした印材が3万、掛け物が15万、端渓の大硯が30万……そりゃふざけるなと言いたくなる気持ちもわかる。

 どこかで聞いたような音楽が流れてやってきた各駅停車に乗り込んでからも『坊っちゃん』を読むのに熱中していたら、波止浜駅で降り今治側最初のレンタサイクルポイントのある糸山へ向かうはずが、つい一駅乗り過ごして今治駅まで来てしまった。また一時間待って一駅引き返すのはさすがに辛いので、今治からしまなみ海道を行くバスに乗って最初の停留所で降り、歩いて糸山へ一度戻ろうと考えた。
 で、バスに乗ったのだが、今度は降りそびれた。ブザーの場所は側面だと思いこみカーテンをめくって必死に探しているうちに通り過ぎられてしまったのである。ブザーは天井にあった。やられた。
 バスは待ってくれない。快適に来島(くるしま)海峡大橋を渡り、あっという間に大島へ入る。慌てて地図をひっくり返した。次のレンタサイクルポイントはどこだ。そしてバスは次にどこで止まるのだ。
 わたしの目が石文化伝承館のレンタサイクルマークを見つけたとき、バスの表示板にちょうど「次は石文化運動公園」と文字が光った。運動公園は伝承館の隣にある。天井のブザーを押した。
 ところが、バス停から歩くこと十数分、ようやくたどりついた伝承館で聞いてみると、レンタサイクルは扱っていないという。
 ガイドブックのミスプリか? それともガイドブックが古すぎたか?
 一番近いレンタサイクルポイントは、港にあるという。徒歩三十分。伝承館のおにいさんが車で送ろうかと申し出てくれたけれど、すでに来島海峡大橋と大島の大半をバスで来てしまったという負い目があったので、謝辞して歩くことにする。

 何だかんだで、港に着く頃には一時を過ぎていた。港近くの料理屋で海賊汁(魚介類をいろいろぶちこんだ味噌汁)とお寿司のセットを食べる。さすが瀬戸内海、安くておいしい。
 店のテレビで東京・目黒のさんま祭りの模様が映っていた。こんなところで地元を観るのは奇妙な感じだった。

 二時頃、ようやく港でレンタサイクルを借りる。マウンテンバイクが良かったのだが、背中の荷物が重かったのでカゴ付きのママチャリにした。

 伯方(はかた)・大島大橋を渡り、伯方島へ。言わずと知れた塩の産地である。
 松山でいよかんソフトというのを見かけたが、ここには塩ソフトなるものがあった。気にはなったが先を急ぐ。
 一時間弱ほどで伯方島を抜け、大三島(おおみしま)橋を渡り大三島へ。
 大の字が付くだけあってでかい。行けども行けども進んだ気がしない。
 いかん。六時までに次の生口(いくち)島にある宿泊予定地へたどりつかねば、宿で頼んである夕食にありつけない。
 落ち着いて考えると電話一本入れれば遅れても多少は融通がきいただろうが、このときのわたしの脳裏にはただ「六時過ぎたらメシ抜き」という文字だけが明滅していた。
 しかし困ったことに、大三島にはどうしても見逃せない場所がある。
 大山祇(おおやまずみ)神社である。
 推奨サイクリングロードの最短距離からはかなりはずれたところに位置し、往復で7〜8キロ上乗せせねばならない。まあスタート位置がかなりずれ込んでいるし、走破と言うにはどうせプラス30キロくらい必要なのだ。よかろう。
 というわけで一時間ほどかけて大山祇神社へ到着。バスの団体さんがいた。自転車で来た愚か者はわたしひとりだった。

樹齢2600年のクスノキ 大山祇神社。
 何がすごいって、まず境内のクスノキ。樹齢2600年である。
 祭神は大山積神(オオヤマヅミカミ)。天照大神(アマテラスオオミカミ)の兄神にあたる。日本総鎮守ということで、陸・海両方カバーする守備範囲の広い神様だが、とりわけ武人と海の守り神として信仰を集めてきた。
大山祇神社本殿 本殿は鎌倉時代造営の重文。また宝物館には戦勝祈願やお礼で奉納された武具数万点が納められているらしい。これは全国の国宝・重文武具の約八割にあたる。旬どころをざっと見渡しただけでも、源頼朝や義経が奉納した鎧(ともに国宝)、木曽義仲奉納の鎧(重文)、伝弁慶奉納の鎧(重文)などがごろごろしている。国宝や重文に指定されていなくても、歴史上のメジャーな人物が奉納したものなどもたくさんある。
 鎧に限らず、鏡、太刀、扁額……ひとつあれば十分観光スポットとして売り出せるレベルのものが、おそらくその存在すらそう知られていないようなこの島の奥地の神社にひしめき合っている。そして神社はあくまで静かで荘厳だ。
 これが貫禄というやつか。

鶴姫像 大山祇神社には日本唯一の女性用鎧もある。それは室町末期の1541年に地元・大三島の合戦で大祝安用(おおほうりやすもち)の息女・鶴姫が着用したものだという。胸回りが膨らみ腰の細いつくりをしている。
 ちなみにこの鶴姫、合戦を勝利に導いたが、恋人を亡くし自らも18歳の生涯を閉じた。
 確かに物語性のある史実ではあるが、しかし「瀬戸内のジャンヌ・ダルク」というコピーは、ちょっといただけない。
 何というか、「和製プレスリー」とか「インドの小室」に似た無礼な響きがないか?
 鶴姫は鶴姫で良いじゃないか。

宝篋印塔 それにしてもお宝だらけの大山祇神社、何と国宝の間は無人だ。自動照明装置を導入しており、人がいないときには暗くなる。展示品を傷めないよう配慮している。管理は良いが警備はけっこうずさんなのでは……いや、そう見えるだけで実はセキュリティ万全なのだろうか? わからない。奥が深すぎる。
 そうそう、宝物館の入口付近には宝篋印塔がある。さりげなさすぎるがこれもしっかり有名人がらみの重文。鎌倉時代に時宗の祖である一遍上人が奉納したものだ。ちなみに一遍上人は三島水軍の河野通信の孫らしい。ちょっとびっくり。

 五時前に神社を後にし、急ぎ自転車を走らせる。
 どうやらわたしは行きにかなり遠回りをしたようで、しかも自動車道を走っていたらしい。のぼりだったし、とにかく疲れた。
多々羅大橋 それに比べて帰りときたら、とにかく風を身にまとったように爽快だ。サイクリングロードの緩やかなくだりがどこまでも続く。行きの半分以下の時間で、次の多々羅(たたら)大橋までやってきた。夕陽が橋にかかっている。

 生口島に入り、六時ちょうどに瀬戸田しまなみユースホステルへたどりつく。
 今回の旅行中唯一全額自力自腹現金で支払う宿である。
 ユースを利用するのは大学二年の旅以来。かなり久々だ。
 この日ここに泊まったのはわたしを入れて三人だった。そのうちのひとりは大学一年生の男性ひとり旅で、夕食を頼んだのは我々二人だけ。彼は後から来て最初わたしに背を向ける位置に座ったが、あまりに不自然と思ったか、わたしのはす向かいに座り直した。
 学生時代にユース利用の旅をしたときにはいつも旅の友たちが一緒だったので、実はユースで出会った人々ととっぷり話したことはなかった。だが今回はわたしひとりだ。
 というわけで、語ってみた。

 彼は、わたしが行きたかったけれど今回経費の都合で泣く泣く切った高知の名所・四万十川へ行ったという。しかし聞いてみると、台風14号の災害直後だったので、かなり悲惨な状態だったらしい。
 彼も東京の人で、マイチャリを担ぎ期限ぎりぎりの青春18きっぷで四国まで来たというので「じゃあ一日目はやっぱり品川辺りから真夜中の『ムーンライトながら』で出発したんですか?」と尋ねると、彼はその手段を知らなかった。
 「そうやって使うもんだったのか……」と彼は驚いていた。
 確かに、わたしも旅の友たちが調べてくれなければ一生知ることはなかっただろう。

 ユース特有の「一期一会」初体験、かもしれない。
 我々はいちいち互いに名前を名乗らない。機会があれば夜に話をして、翌朝にはそれぞれの都合で挨拶もなく旅立つ。
 本来ユースというのは、こういう機能のある宿だった。
 あれから数年、ユース事情も色々変化しているらしい。かつて貧乏旅行必須の宿といえばユースだったが、今ではユースより安いビジネスホテルや民宿も多い。一方ユースは全体的に設備がどんどん良くなっていき、都心のユースでは個室化が進んでいるらしい。
 論外ユースが存在したわたしの学生時代を思うと設備改良は喜ぶべきことだが、しかしユースが個室化したところで、どこにでもあるホテルに近づくだけではないのだろうか。しかもユースはそのスタンス上、サービスという点では永遠に本業ホテルを越えることができない。
 安さだけでは勝負できなくなったユースに他の追随を許さない付加価値があるとすれば、それは口コミ、現場レベルの生きた情報だ。Webで調べられるようになったことも多いが、ユースにいるなら自分からほんの少しアクションを起こすだけで、それらはいとも簡単に、もう結構というほど手に入る。遠慮も気遣いもいらない。自分も相手もただの旅人なのだから。
 もっとも、ホストペアレントには礼状を書くという形でその後つながりを持ってもいいかもしれない。

 夜、ユースのご主人がお茶に誘ってくれたので、食堂へ出向いた。先ほど話をした学生のほかにもうひとり男性がいる。こちらは前日から生口島に入り滞在していた人らしい。この日は衆議院議員の選挙日で、彼は前日に尾道を通った。亀井静香氏とライブドアの社長・堀江貴文氏の戦いで話題になっていた広島六区だ。やはり前日の白熱ぶりはすごかったようだ。
 ちなみにわたしは旅に出る前に地元で投票を済ませてきた。以前は不在者投票と呼びならわしていた気がするのだが、正式名称は期日前投票というらしい。目黒のさんま祭りの話は観る気がなくてもこちらで目にしたというのに、出口調査結果や当選確実の速報はどこのチャンネルにしても西日本中心で、東京五区の情報を得るのに思いのほか苦労した。所詮は一地方なんだなあ。
 実はこの瀬戸田しまなみユース、風呂は温泉である。といっても源泉はそう高温ではないので、入浴するため温める必要がある。
 ご主人は究めた温泉学の蘊蓄を披露してくれた。
 さらに、ユース隣の敷地が手に入ったので、数年がかりで建物の改造と温泉拡大を計画しているのだと話してくれた。しかもそれを業者に委託せず自力でやるらしい。三年くらいしたら、この辺りは一変していることだろう。

 海外におされ気味で全体的にもう少し活気の欲しい国内観光業。地元の人々は苦しい中で、なお模索を続けてくれている。松山しかり、しまなみ海道の島々しかり。勇み足で「あれ?」というものも時折できてしまうが、それは観光客のシビアな評価により淘汰されていくことだろう。改悪は困るけれど、挑戦をやめてほしくはない。

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